讃美歌 HYMNS
(なお、私は現在はいずれの宗教団体、組織にも属していません。)
歌詞は英語もドイツ語も独力で訳したので多少勘違いがあるかもしれません、ご注意。 英語が得意かつ聖霊を宿されている方(聖書に詳しい方)で、誤訳に気づいた方はご指摘ください。 宗派によって歌詞が微妙に違ったりしますが、有名な歌手ほど勝手に単語を変えたりしています。自分は偉いんだというステータスでしょうか? フォローしきれません。(怒&笑) |
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イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。
大勢の金持ちがたくさん入れていた。
ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、
すなわち一クァドランスを入れた。
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、
賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、
生活費を全部入れたからである。」
マルコによる福音書 12章 41-44節(新共同訳)
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。
さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、
自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。
はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
あなたの施しを人目につかせないためである。
そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
マタイによる福音書 6章 1-4節(新共同訳)
ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、
『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。
主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、
最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。
しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
それで、受け取ると、主人に不平を言った。
『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。
まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。
あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
マタイによる福音書 20章 1-14節(新共同訳)
現代の多くの日本人には理解しにくい物語ではないでしょうか。
たくさん仕事した人は、少ししか仕事をしなかった人よりもたくさんの賃金をもらえるはず。
組織や団体では、古い人のほうが新しい人よりも偉い。ごもっともな話です。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
労働者は皆、主人から1デナリオン(←1万円とでも思ってください。)をもらう約束をしている。
5時頃に仕事に入った人は、それまで遊んでいたわけではなく、誰か雇ってくれる人はいないか、
明日のパンはどうしようかという気持ちであちこち廻ったり、不安で待ちぼうけていたのです。
夜明けから一番最初に仕事に入った人は、最後に仕事に入った人が1デナリオンをもらうのを見ながら、
「ああ、最後まで明日のパンを心配していたあの人も、よかったよかった。」と喜びつつ、
最後に自分の番が来たときに、「これでみんなが明日のパンに困らない。よかったよかった。」と言って
1デナリオンをありがたく受け取るべきじゃなかったんですか???という物語です。
この労働者に欠けていたのは、人としての連帯感、ともに喜びを分かち合う心、つまり愛でした。
My old family |
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私のひいおじいさん、菊池知學です。名古屋YMCAの設立者です。従兄弟の山田兄弟とともに、孫文の支持者をしていました。
6歳で実父を亡くしたため、菊池九郎に引き取られて育ちました。 |
私のひいおばあさん、菊池鈴枝です。右の人じゃなくて、左の人です。
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ひいおじいさんは幼稚園の園長もやっていました。名古屋の栄の、名古屋中央教会に併設されていた幼稚園です。
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ひいおじいさんの従兄弟、山田良政です。(菊池九郎の姉の子) 中国革命に尽力し、1900年の恵州蜂起時に清軍と交戦して戦死しました。
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ジョン・イング先生一家と東奥義塾初期メンバー。両端が設立者の菊池と本多。左端の本多から右に2人挟んで珍田。
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菊池九郎の弟、菊池群之助(軍之助)は、明治10年、珍田捨巳や佐藤愛麿ら5人(写真のメンバーとは違います。)でアズベリー大学(現デポー大学)に留学予定でしたが、同年に勃発した西南戦争に九郎とともに従軍したため、翌年2月に1人だけ遅れて出発しました。しかし、旅程中に肺炎と思しき病気にかかり現地に辿り着いたものの、そのまま病没しました。現地では新聞にも報じられ、葬儀には町のメソジスト教会員が160人ほど集まったとのことです。今もインディアナ州グリーンキャッスル南方のフォレストヒルの墓地に眠っています。
後列左から右へ、進藤正臣、蒲田廣、珍田捨巳、 前列左から右へ、馬場束、菊池群之助 |
関係者 | |||
ひいおじいさんごめんなさい、結婚できなかったので墓守をしてくれる子孫の予定がありません。。。(^^;)